「歴史性のシンボルとして水戸光圀公像を置く」。1990年(平成2年)4月29日茨城版によると、JR水戸駅北口再開発事業で「県都の表玄関にふさわしいモニュメント」として水戸藩2代藩主・徳川光圀、すなわち水戸黄門が選ばれました。名君だったと言われるだけあって、モダンなイメージの建造物に取り囲まれながら、やはり主役級の扱いで県都のシンボルの貫禄十分。2年後の「平成4年度中の完成」を目標に工事が進められました。
2年半後。「水戸黄門、助さん、格さんの3人像が完成した」と、1993年(平成5年)1月9日茨城版が伝えました。当初の「歴史性のシンボル」というよりは、テレビでおなじみの姿に落ち着いたようです。記事によると、黄門像は「3人そろった像は史実と異なることもあって、ほとんど作られていない」。それまでも市民から3人像を望む声がありましたが、水戸徳川家が難色を示していたそうで、この時は市が「水戸のシンボルにしたい」と了承を得ました。登場から30年近くが過ぎましたが、3人像は撮影スポットとして健在です。
「どうして水戸黄門はそんなにもてるの?」。1996年(平成8年)1月7日茨城版の連載[常陸ふしぎ探究]第4回が、人気の理由に迫りました。テレビドラマのおかげでしょ、という意見もごもっとも。ですが、研究者によると「黄門崇拝はすでに光圀の死去直後から始まり、江戸期を通じ全国にあった」「崇拝は、光圀が庶民を大切にしたからこそ始まった」。勧善懲悪のヒーロー、庶民思いの名君……虚実両面の魅力が愛され続ける理由のようです。
後編では、黄門さまに勝るとも劣らない茨城県のシンボル、納豆を特集します。(む)