★桜について講演
ヨミダスで最初に出てくるのは1894年(明治27年)4月5日朝刊<日本園芸会小集会/東京・品川>で、会員たちが銀行家・実業家の原六郎氏宅に集まり、富太郎は「桜」をテーマに演説する予定とあります。
春になると、よく愛(まな)娘に「日本中を桜で埋めたい。飛行機からも一面の桜を見下ろせるように」と語りかけ、著作の中でも「桜の花の雲で東京を埋め、道には五、六里も続く花のトンネルを作らねばならぬ」と書いた([街に聞く]牧野記念庭園 博士の遺志、草に木に 息づく希少植物300種=1999年3月23日東京朝刊)という富太郎らしい演題です。
★戦争中には…
戦争中の1942年(昭和17年)には、食糧難に備えて、自らが試食した上で食べられる雑草を紹介しています([牧野博士試食済みの雑草]上、下=10月8日、9日朝刊)。
オニノゲシ「葉の縁に強い鋸歯(のこぎりば)があり、生の時は手をイライラと刺すが、茹(ゆ)でると柔らかになっておいしい」、ヨメナ「春生えたのが今は花をつけているが、注意して見ると、下の方に秋芽が出ている。これを取って茹で、細かに刻んで塩とまぜ、ご飯にまぶすと誠においしい」などと詳しく書かれており、ちょっと食欲をそそられるような気も…。
★驚異的な生命力
戦後間もない1949年(昭和24年)6月25日、<植物学の牧野博士危篤>の見出しが出て世間を驚かせますが、わずか半年後の12月には<[一日一題]生きかえる/牧野富太郎>(11日夕刊)と題した寄稿が掲載されるまでに回復します。
この中で富太郎は危篤に陥ったときのことを、「前晩までは体に何の異状もなく植物の図を描きおわって三時に就寝したが、翌朝から劇(はげ)しい急性大腸カタールで十日あまりも意識を失い、(中略)ついに医者からは『御臨終デス』との宣告を受け、家族からは末期の水をのまされる始末」だったと振り返っています。
ところが、家族が永別のために大声で名前を呼ぶとわずかに目を開いたため、「まだ生きている」とカンフルやリンゲル注射を繰り返し打ったところ「だんだん意識も取りもどし、奇跡的に体力も回復して、六か月目に漸く全快した」と、驚異的な生命力を発揮しました。
そんな富太郎も、1956年(昭和31年)に入ると、さすがに体力の衰えが目立ち始め、<牧野富太郎博士の病状悪化>(7月7日朝刊)、<牧野博士また重態>(7月15日朝刊)などと心配な状況が続きますが、その都度なんとか持ちこたえます(<牧野翁“奇跡”の立ち直り 医師も“ヤマを越した”と太鼓判>=同年8月7日朝刊)。
しかし、一進一退を繰り返しつつ年を越した1957年(昭和32年)1月18日、富太郎は力尽きます(<牧野翁、ついに死去す 植物の研究にささげた一生>)。
「草を褥(しとね)に木の根を枕 花と恋して九十年」([名言巡礼]私は植物の愛人として生まれ来た あるいは草木の精かも知れん=2016年7月31日東京朝刊)の自作の都々逸よりさらに長く、江戸、明治、大正、昭和を駆け抜けた94年の人生でした。(は)