戦前から戦後にかけての活躍ぶりを紙面でたどってみました。
★唯一の時代劇
小津の初監督作品と言えば1927年(昭和2年)の「懺悔の刃」です。ヨミダスでは同年10月11日付〈松竹キネマ来月の陣容〉に小津安二郎第一回監督作品として、主演吾妻三郎「懺悔の刃」が出ています。同じく15日には広告もあり、東京・浅草の電気館で清水宏監督作品「炎の空」と同時上映されたことも分かります。
★戦地でバッタリ
小津監督は1937年に応召して中国に渡りますが、そこで思わぬ出会いがありました。
俳優の佐野周二です。同年3月公開の映画「淑女は何を忘れたか」で起用しており、既知の間柄だった二人は南京で伍長と軍曹として顔を合わせ、漢口での再会を約して握手を交わして別れたそうです(〈漢口での再会を期して 別れた南京の小津監督・佐野周二〉=1938年9月25日夕刊)。この記事には小津監督の肩に手を置いて笑顔を見せる佐野周二の写真も付いています。
★セットは「美術館」
戦後になって、小津作品は「晩春」(1949年)、「麦秋」(1951年)、「東京物語」(1953年)と円熟味を加えていきます。「東京物語」封切り時の新聞広告(11月1日夕刊)には作家・志賀直哉の「ウソがない、いゝ小説を読んだあとのような感銘を受けた」との賛辞も。
初のカラー作品となった「彼岸花」では色彩にもこだわり、秘蔵の美術コレクションを小道具で持ち込んだことが紹介されています(〈小道具に凝る小津監督 初のカラー映画「彼岸花」 セットはまるで“美術館”〉=1958年7月23日夕刊)。
梅原龍三郎や岸田劉生の絵画、白磁の皿、李朝の壺など総額2000万円の美術品が使われ、管理を任された小道具係は盗難が心配でノイローゼ気味だったとか。
★印象的な最期
小津監督は最期もまた印象的です。
1962年(昭和37年)2月、長野・蓼科の別荘で遺作となる「秋刀魚の味」を執筆中に、小津監督は長年二人暮らしだった最愛の母親の訃報を受けました。その翌年、60歳の誕生日に自身もこの世を去ったのです。
「芸術院会員に選ばれ、映画監督として功成り名を遂げた小津は、不意にがんに襲われ、翌六三年(昭和三十八)十二月十二日、母を追うようにして不帰の客となった。誕生日、しかも還暦を迎えたその日に。まるで生涯に残した五十四本の作品のように、細部まで計算し尽くした律義な最期だった」(〈[戦後50年にっぽんの軌跡](76)「東京物語」 小津安二郎の世界〉=1995年6月5日東京朝刊)。(は)