コロナ禍を乗り越え、2023年に復活した隅田川花火大会。ヨミダスでその歴史をたどってみました。
★由来は?
<[江戸から昭和へ]東京の史跡を歩く 両国川開(かわびらき) 夏の夜空に“江戸の華”>(1983年=昭和58年=5月23日朝刊)によると、両国花火(後の隅田川花火大会)のルーツは江戸時代。享保17年(1732年)に大飢饉(ききん)が発生し多くの餓死者が出たうえ疫病まで流行、この時、犠牲となった多くの人々の慰霊のため、翌年の享保18年(1733年)に幕府が両国橋で水神祭を催し、周辺の料理屋などが花火を上げたことが起源とあります。この説は、隅田川花火大会の公式ウェブサイトにも掲載されています。
一方で1891年(明治24年)の<両国川開きの由来>(8月12日朝刊)には、1720~1730年代に花火製造人の鍵屋某が両国納涼の人出を当て込んで船で自家製花火を販売したところ大評判となり、それ以降、毎年、宣伝のために隅田川で花火を上げるようになったのが始まり、との由来が紹介されています。
実際のところはよくわかりませんが、読売新聞には創刊間もない1875年(明治8年)から、「両国川開きの花火」についての記事が数多く載っています。
★明治時代の事故
1897年(明治30年)8月、花火の最中、両国橋下で起きた若者同士のけんかを見ようと橋の上に群衆が押し寄せ、欄干にもたれかかって下をのぞこうとしたため、老朽化していた欄干が4間半(8メートル余)ほどにわたって崩落する事故が起きました<両国川開きの大変事 欄干崩落、見物客が水中に転落>(12日朝刊)。
記事によると見物客60~70人が隅田川に転落し、死者2、負傷者7、不明者3人となっていますが、夜のうえ現場は大混乱だったため、実際の詳しい被害状況はよくわからなかったようです。
ちなみに、1893年(明治26年)生まれの木村荘八がこの事故の翌日のようすを「橋際の川の中の砂の出た処に、下駄や草履が一杯、山になっていた」と書き残しています(「花火の夢」=『東京の風俗』冨山房百科文庫所収)。
★戦時中は?
日中戦争が始まって間もない1937年(昭和12年)7月18日朝刊の<夜空に閃く時局の姿 時節がら出足も減った川開き/東京・両国>によると、「大江戸広重情緒両国の夕涼み」など14もの仕掛け花火が上がり、外国人客が「おお、ヒロシゲ・ワンダフル」と歓声を上げたそうです。
一方で「防空セレナーデ」という、世相を反映した名の花火もありました。川の両岸をギッシリ埋めた観客は47万人以上。これでも前年より3割ほど少なかったそうです。
この年を最後に花火大会は中断します。
★待ちに待った復活
1948年(昭和23年)8月1日、11年ぶりに花火大会が復活しました。午後4時開始だというのに両国橋のたもとには朝8時ごろから人が集まり始め、「人出約100万人、川面に浮かべた舟1500余、警戒のお巡りさん5000、まさに終戦来最大の催物の名に恥じなかった」と大盛況。幅6間(約11メートル)もある「ナイヤガラ瀑布」などの仕掛け花火もあり、「ほとんど間断なく両国の夜空を焼く350万円の錦の光」を楽しみました。
その中には「輝く平和の曙」と名付けられた仕掛け花火を眺め、涙ぐむ老花火師の姿もありました<11年ぶりの両国川開き 100万人の大歓声 夜空に咲く大江戸の華>(8月2日朝刊)。
★またも中断
それから14年、復興を遂げ、自動車の保有台数が増え始めた昭和30年代に残念なニュースが紙面に出ました<「両国川開き花火」中止 ことしは交通難のため>(1962年=昭和37年=5月16日朝刊)。
交通事情が悪化して事故の恐れがあるだけでなく、隅田川上を走る高速道路の橋桁工事や地下鉄工事なども重なるため、安全を考えて花火大会の中止が決まったのです。その後、復活の動きはありましたが、交通や火災予防の観点から実現せず、再開は1978年(昭和53年)まで待たねばなりませんでした。
★再び復活
「両国川開き」「両国の花火」などと呼ばれて親しまれてきた花火大会は、1978年7月に「隅田川花火大会」という名称で再開することになりました<ドーンと7月29日夕 隅田川花火決まる/東京>(5月16日夕刊)。
当日は、復活を待ちわびた浴衣姿の家族連れなど 80万人が見守る中、1時間に計1万5000発の花火が打ち上げられ、夜空を彩りました<帰ってきた光の絵巻 隅田川花火大会 17年ぶり1万5000発/東京>(7月30日朝刊)。
戦争や交通事情の悪化だけでなく、コロナ禍による中止も乗り越えて復活し、時代とともに姿を変えて継承されていく隅田川花火大会。歴史を感じて眺める夜空の大輪はまた一味違うかもしれません。(は)