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コラム「虫めがね」

「ディズニー100周年に寄せて」

megane_illust0426 今年は1923年(大正12年)創立のウォルト・ディズニー・カンパニー100周年の年にあたります。ディズニー作品が日本に伝わってきた当時や、ディズニーランド開園時の様子は、紙面ではどのように紹介されていたのでしょうか。ヨミダスで振り返ってみましょう。

 「ディズニー」とキーワード検索をかけて出てくる一番古い記事は1931年(昭和6年)7月13日朝刊の「線だけ踊る映画 近く輸着の変り物」。冒頭に、「最近漫画トーキーが素晴らしく流行して来、小鼠を主人公として『ミツキー・マウス』漫画を描くワルト・デイスニー君」と触れられていますので、このころすでにミッキー・マウスは有名人となっていたもようです。当時はアニメのことを「漫画トーキー」などと呼んでいたようですね。

 戦後の1950年(昭和25年)には、世界初の長編カラーアニメーション映画「白雪姫」が日本で公開され、白雪姫のイラスト付きの映画広告が連日紙面に躍ります。

 「白雪姫」がアメリカで公開された1937年(昭和12年)は日中戦争が勃発した年。長い戦争が終わり、ようやく日本でもこの総天然色の名作が楽しめるようになりました。

 10月2日の夕刊「[今週の映画評]秀作“白雪姫”」では「所謂(いわゆる)マンガ映画というわれわれの観念を破る演出のうまさは随所にみられ、特に七人の小人の性格の描き方など一般劇映画をりょうが(凌駕)するものがある。…日本映画にとって今後デイズニイの近作がつぎつぎと上映されることは刺激を通りこして壊滅の危険さえ感じる」とまで評され、少々大げさにも思える表現が、13年の時を越えて高度な技術や演出を目の当たりにした衝撃を物語ります。

 1955年(昭和30年)、アメリカ・カリフォルニア州アナハイムに最初の「ディズニーランド」が開園します。

 読売新聞社もアメリカのディズニーランドに小学生や中学生の豆記者を派遣し、当時の正力松太郎社主宛てにウォルト・ディズニー本人からのメッセージが持ち帰られました(1958年8月19日朝刊、1960年8月3日朝刊など)。1960年8月13日夕刊掲載の豆記者によるリポートには、ウォルトとの出会いを振り返り、「この人がディズニーランドの社長さんか。この人が貧苦の中から努力に努力をかさねてこれまでになった人間なのか」と驚きを持って見つめる素直なまなざしがつづられています。

 1961年3月28日朝刊には春季キャンプで渡米した読売巨人軍の選手たちが帰国前にディズニーランドで羽を伸ばす様子も。当時の川上哲治監督も子ども向けのカートに乗車して楽しんでいる場面が写真に収められています。

 いよいよ日本にディズニーランドがやってきたのは1983年(昭和58年)。4月15日の夕刊「超大型おとぎの国 東京ディズニーランド開園―雨の中、人の波」では、あいにくの雨に見舞われながらも日本全国から人々が駆けつけ、大盛況の中オープンした様子が伝えられています。シンデレラ城を背景に、オープニング式典でミッキーマウスらキャラクターが勢ぞろいで踊る場面の写真も掲載され、現在まで40年にわたる東京ディズニーランドの歴史の船出が記録されています。(真)

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 ヨミダスでは、明治・大正・昭和期の旧仮名遣いの記事でも現代の表記でキーワード検索することができます。例えば実際の紙面では「デスニイ」「デイスニー」などの表記となっていても、「ディズニー」という現代仮名遣いで検索が可能です。

 

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