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コラム「虫めがね」

「読売新聞の150年・上」

 

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2024年が明けました。本年も読売新聞データベースをよろしくお願いいたします。

 今年、読売新聞は創刊150年を迎えます。産声を上げたのは1874年(明治7年)11月2日。文明開化の明治から令和の世まで至るあゆみを、2週にわたって紙面とともにたどってみたいと思います。

 

★創刊号、大衆紙のあけぼの

 「第壹號」となる創刊号を開いてみます。当時の紙面は横長の表裏2ページで、「官許 讀賣新聞」の題字横には「隔日出版(いちにちおきしゅッぱん)」と添え書きがあります。

 トップ記事は「布告(おふれ)」。政府の官令や通達を掲載していますが、当時の公用文は漢文調で書かれ、一般の人には大変読みづらいものでした。

 そこで読売新聞は、平易な言葉で解説を付け、「天皇、皇后両陛下の行幸啓の際にとるべき礼儀」など話し言葉で読者に語りかけるように説明しました。特徴的なのが傍訓(振り仮名)で、単に漢字の読みを示すにとどまらず、「帽子(かむりもの)」「政府(おかみ)」などと、庶民にとって分かりやすい言い換えで意味を示しています。

 「読売新聞」の名称は、「読みながら売る」江戸時代の瓦版の販売方法に由来し、実際に1878年(明治11年)初頭までは売り子が街頭で呼び声とともに販売していました。この背景には、一般の人々に「新聞とはなにか」を知ってもらい、多くの人に読んでもらうことで大衆の開明を目指した、初代社長子安峻(こやすたかし)らの強い決意がありました。

 子安ら創業者3人ははじめ横浜で活版印行所「日就社」を設立し、東京・虎ノ門に移転後、読売新聞を創刊しましたが、当初配達や集金を担っていたのはなんと、大垣藩士であった子安が故郷から連れてきた士族や旧幕臣。

 羽織袴に帯刀でお供を連れ、「わざわざ御来臨くだされては恐縮なりと挨拶しコレ御茶を持って来ぬか御茶菓子はと云ふの待遇なりし」と購読者にかしこまられてしまう様子が、1893年(明治26年)6月1日<新聞紙の昔 読売新聞創立20周年特集>に滑稽に描かれています。

 200部の隔日出版からの船出だった読売新聞は、創刊翌年の5月には日刊紙に変わり、発行部数は1万部に達していました。

 

★文化の旗手として

 明治期には文芸重視の紙面を展開し、明治文学を代表する尾崎紅葉「金色夜叉」の連載も始まりました。紙面を追ってゆくと、連載初期の紙上のペンネームは「紅葉」、「後編」からは「紅葉散人」、「続金色夜叉」で「こうえふ(こうよう)」と変わり、「続々金色夜叉」の途中からは「紅葉山人」へと、幾たびもの表記の変遷があったようです。

 このような、単行本では分からない連載当時の姿も刻まれています。

 1917年(大正6年)は江戸が東京に変わった「奠都(てんと)」から50年にあたり、読売新聞社は協賛事業として「東海道駅伝徒歩競走」を開催します。これが今年100回を数えた箱根駅伝につながる「駅伝」の始まりとなりました。

 4月27日の<東海道駅伝徒歩競走 いよいよ本日京都発程>を見ると、スタート地点の京都から琵琶湖を過ぎ、名古屋城や富士山を望み、箱根の山を越え、東京奠都博覧会が開かれる上野まで全23区のコースを浮世絵風に描いたイラストをすごろくのように配置し、関東チーム・関西チームに分かれてタスキをつなぐ選手46人全員の氏名と顔写真を掲載。ほぼ全面を使った見事な紙面になっています。アンカーには“日本マラソンの父”金栗四三の名も見えます。

 その後、学校対抗の第1回箱根駅伝が1920年に開催されますが、参加校は早稲田、慶応、明治、東京高等師範(現・筑波大学)の4校。結果は高等師範の優勝でしたが、2月16日に<高等師範勝つ/第1回箱根駅伝>として欄外にごくこぢんまりと掲載され、先の東海道駅伝の盛り上がりと比べると、驚くほど小さな扱いでした。(真)(続く)

 

 

 

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 ヨミダス歴史館は創刊150周年の今年、リニューアルし生まれ変わります。ロゴを変更、インターフェースを刷新し、新機能「紙面を見る」を加え、1月22日よりお試しいただけます。新しい「ヨミダス」を今後ともよろしくお願いいたします。

 

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