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コラム「虫めがね」

「直木三十五 没後90年」

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 1935年(昭和10年)、文藝春秋社長の作家・菊池寛によって芥川賞と一緒に設けられた直木賞。この賞は、前年2月に亡くなった親友で流行作家の直木三十五(1891~1934年)=写真(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)=を記念して設けられたそうです。

 それから90年、文学賞としての名前は残っていますが、どんな作家だったのかは知る人も少なくなってしまいました。今回は、そんな直木三十五に関する紙面をたどってみました。

 

★ペンネームの由来は

 1931年(昭和6年)5月15日朝刊に、直木自らが、ずばり[ペンネーム・本名の由来]を寄稿しています。それによると「僕の戸籍面の名は、植村だ。この植を二つに分けて直木とし、齢が三十一であったから名を三十一にした。それから二、三、五ときて、六にした時、そのまま印刷してくれたのは『不同調』(新潮社の文芸雑誌)だけで、一人の友人は『三十五は姓名判断学上いい名だ』というし、一人は『馬鹿な真似はよせ』と叱った(後略)」ため、改名し続けるのをやめ「三十五」で落ち着いたとのことです。

★映画界に進出

 1925年(大正14年)に入ると、直木が中心となって「連合映画芸術家協会」を設立、映画製作にも乗り出します。

 <映画芸術に新しい旗揚げ 一流の文士俳優を集めて「連合映画芸術家協会」成る>(同年3月31日朝刊)によると、文芸部には菊池寛、演技部に二代目市川猿之助、監督部に牧野省三といったそうそうたる名前が並んでいます。

 その後10本以上の映画をつくりますが、理想を掲げてスタートした連合映画芸術家協会は、わずか2年余で解散、直木は映画から手をひくことになりました。

★人気作家に

 連合映画芸術家協会解散から2年後の1929年(昭和4年)7月24日、紙面に<[真夏の一頁]直木の「大殺記」/三上於菟吉>(朝刊)の記事が出ます。当時、流行作家だった三上はこの中で「直木は由来ありあまる才能を文字へ十分に出さなかった男だ。彼は書肆(しょし)に失敗し、活動写真事業に失敗し、その他の商業に全部成功しなかった。ここに彼の芸術家としての優秀性があったのを、今になってみんなは見るだろう」と激賞、これを機に直木は大衆作家として認められていきます。

★43歳で早世

 1933年(昭和8年)11月21日に読売新聞夕刊で連載小説[相馬大作]がスタートするなど人気作家として忙しい日々を送る中、1934年(昭和9年)2月4日朝刊に、突然こんな記事が出ます。

 「普通の人には到底堪えられそうにもない病気にも拘らず豪気一点張りで病気と闘っている直木三十五氏は、はたから見ると悲壮そのものだ」(<[展望台]直木三十五の闘病術>)。

 直木は、多くの連載を抱える一方で肺結核に加え脊椎カリエスも患っており、会合の席などでも長く座っていられないなど、文字通り骨身を削って原稿を書いていました。

 心配した菊池寛などの説得で、この後、東京帝国大学付属病院に入院するのですが、14日には(結核性)脳膜炎を併発し重体に陥りました(<直木三十五氏重体 脳膜炎の兆候>)。

 それからわずか10日、直木は親友の菊池寛らに見守られ43年の短い生涯を閉じました(<直木三十五氏逝く わが大衆文芸の巨星再び起たず 闘病44年の生涯>=2月25日朝刊)。

 連載中の[相馬大作]は未完で終わりましたが、死後も「遺稿」として第80回から第90回までが掲載されています。(は)


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