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虫めがね

「節分ヒストリー」

 megane_illust220125年が明け、スーパーの店頭に節分の豆まき用の福豆が並ぶ季節です。節分にまつわる明治・大正時代の記事をヨミダス歴史館で振り返ってみました。

 「節分」のキーワードで検索して出てくる最も古い記事は、1875年(明治8年)2月7日朝刊の投書欄なのですが…。

 「今月三日は節分にて世間の人々が豆をまき獅子を舞(まわ)し門口には赤鰯柊をはさみ以前と少しも変わりませんが…(中略)…開化々々というは畢竟(ひっきょう)かような馬鹿げた事を止めて銘々たしかな事に心がけねば成りませんが兎角(とかく)豆まき棚機(たなばた)月見または彼岸などといって当こともないものに時を費やすものが多くこれらの馬鹿々々しいことは大がいに皆さんも止めてはどうでござりましょう」

 なんと、驚くべきことに、文明開化の時代なのだから節分をはじめ七夕や月見までも、時代遅れの「馬鹿げた事」なのでやめてしまってはどうかという提言が投書されています。

 現代では考えられないような慣習もあったようです。

 「節分の夜人知れず自分の平生用いつつある枕や褌(ふんどし)を路端の四ツ角に捨てれば其年(そのとし)の厄落としになるという迷信は江戸時代より行われ年毎(としごと)に節分の翌朝には到る処の往来に女の褌の打ち捨てられたるもの夥(おびただ)しく」(1913年=大正2年=1月28日朝刊)

 節分の次の朝には、まるで嵐の後のように厄落としのため投げ捨てられた下着や布類が街中に散乱する光景が広がっていたようですね。これでは、旧弊な迷信として追放しようとしたくなる気持ちも分からなくもない、といったところでしょうか。

 明治末期に東京から成田までの鉄道が開通し、直通列車の運転が開始されると、「成田山新勝寺の節分会に成田鉄道が臨時汽車運行」(1902年=明治35年=1月30日朝刊)などの記事から、成田山新勝寺の節分会に出かける人々向けに臨時列車を増発したり、往復割引切符を発売したりと、鉄道各社が競い合って旅客を誘致している様子がうかがえます。

 1908年(明治41年)1月30日朝刊「節分の豆まき式で成田へ臨時列車」ではこの年、成田山新勝寺の豆まきをする「年男」に当時の大相撲力士「国見山」や、歌舞伎役者「尾上梅幸」の名が見られます。力士やその時代のスターが豆まきをするイベントはこの頃にはすでに確立していたようですね。

 一時は旧弊な年中行事として追いやられかねなかった節分も、鉄道や行楽の商戦と結びつき、庶民のレジャーとして定着していったのかもしれませんね。

 コロナ禍に翻弄されたこの数年。今年こそは疫病という「鬼」の退散を祈って、節分の今昔に思いをはせながら豆まきをしてみてはいかがでしょうか。(真)

 

 

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