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コラム「虫めがね」

「関東大震災と読売新聞」

megane_illust230830 今からちょうど100年前の1923年(大正12年)9月1日、首都圏に甚大な被害を及ぼした関東大震災が発生しました。

 被害を受けた家屋は総計37万棟、死者・行方不明者は約10万5000人にのぼったこの未曽有の大災害を、読売新聞は当時どう報じたか。ヨミダスで振り返ります=写真は東京都慰霊堂=。

 

★空白の10日間

 まず、「関東大震災」というキーワードで記事検索をかけてみます。すると、検索結果の初めに出てくるのは1923年9月12日の記事。では、震災発生当日以降、11日までの紙面はどうしたのでしょうか…?

 今度はキーワードを入力せず、「1923年9月1日~」の日付範囲で検索期間を指定し、すべての記事を検索してみると、震災発生当日に編集・印刷するはずだった9月2日付から、11日付までの紙面が抜け落ちていることが分かります。

 実は、読売新聞社は1日に発生した地震の後の大火災により社屋を焼失してしまったため、その後の4日間、新聞の発行を停止せざるを得ませんでした。「読売新聞百年史」によると、6日には手刷り印刷機で号外の発行を開始しました。

 なお、読売新聞社は震災の直前、社屋を新築移転したばかりでした。8月7日朝刊では<読売新聞新築記念号>という特別面を組み、最新式の電気室や電信設備を紹介。同月20日朝刊の社告で新社屋に移転した旨をお知らせしています。夢を託した最新設備は活躍することなく、炎にのみ込まれてしまいました。

 

★惨状を記す

 9月12日付の紙面で目に飛び込んでくるのは、<避難民に混雑する二重橋前>というキャプションのパノラマ写真です。街は廃墟となり、焼け出されて皇居の周りに避難してきた人々がバラック小屋を建てたり、テントを張ったりしてひしめき合っている様子が確認できます。

 同日別ページの<辛うじて生き残った文学者たち>の欄には、里見弴や久米正雄、谷崎潤一郎ら、生死不明とされていた文壇の面々の生存情報も掲載されています。

 20日付紙面には、「十二階」とよばれ東京のシンボルタワーであった浅草・凌雲閣が無残にも折れてしまった姿が写真に収められています。凌雲閣はその後、22日付の<爆破作業始まる 物凄い爆音に驚くな>という記事の予告通り、23日に陸軍工兵隊によって爆破解体されました。

 その他にも、ここではあえてご紹介しませんが、震災発生時や直後の生々しく悲惨な光景や経験、混乱の中で起こった事件が連日掲載されています。すべてが正しい情報であるとは言い切れませんし、主観的な記事も多く見受けられますが、それも含めて当時の混迷を探ることができます。ぜひ、調べてみてください。

 

★教訓を後世に

 最後に、1923年9月27日紙面に掲載された論説をご紹介します。

 <評論 災中の不祥事 一段の教養を要す>と題し、「今回の震災火災が生んだ数多い不祥事のうちで、誤解によって幾多の人命の損傷されたことほど遺憾のことはない」と本紙記者は述べます。

 記者は続けます。「吾人(私)は我が国民が今少しく自己の常識と冷静なる自己の判断とを働かして、軽信を慎み、急燥を避け、かかる非常の場合に際会しても、動ぜず、慌てず、(中略)ますます秩序を紊乱せしむる如きことなきよう努めたいものだと思う」「それには国民各自が、平素から社会の諸現象について諒解する所あり、この諒解の上に立って努めて正確なる自己の判断を下し、(中略)素養を積むことが必要である。しかしてかかる素養こそまた立憲国民たるに必要欠くべからざる素養である」――。

 今を生きる我々も、いつまた大きな災害に遭遇するか分かりません。歴史に学び、過去のあやまちを我がこととしてとらえ、未来に備える一助として、ヨミダスがお役に立てば幸いに思います。(真)

 読売新聞本紙では今年、[関東大震災100年]の連載や、震災に関するさまざまな特集が掲載されています。そちらも併せてご覧ください。

 

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