「読売新聞の150年・下」
前号に続き、読売新聞の創刊から150年の軌跡を紙面をたどりお届けします。
★中興の祖、正力松太郎
1923年(大正12年)に発生した関東大震災で新築直後の社屋を失った読売新聞社は経営困難に陥り、創設以来最大の危機を迎えましたが、そこに登場したのが読売中興の祖、正力松太郎社主でした。
当時、摂政だった昭和天皇の車が銃撃された「虎ノ門事件」で警察官僚を辞していた正力社主が社の経営を引き受けるにあたって、当初の資金10万円を提供したのは東京市長や内務大臣を歴任した後藤新平です。現代の価値で3億円近い資金を、後藤伯は自宅を抵当に入れてまで工面したのでした。
「新聞社の経営は非常にむづかしい事業だと聞く、もし君は失敗したらこの金を綺麗にすてて来給へ(中略)、返す必要はない…」と快諾した後藤伯の没後に資金の出どころを知った正力社主が、恩返しとして後藤伯の故郷岩手県水沢町(現・奥州市)に日本初の公民館を寄贈したエピソードは、1941年(昭和16年)4月5日<巨人後藤伯爵の生地に錬成道場“公民館”を贈る 正力本社長 旧恩に感謝>で読むことができます。
正力社主は、1930年代にベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグら大リーグの選抜チームを招き、2度にわたり日米野球を実現させました。その日本代表チームを基礎として創設したのが職業野球・大日本東京野球倶楽部。現在の読売巨人軍です。1934年(昭和9年)12月27日<いよいよわが国最初の野球会社創立さる>の紙面には、沢村栄治、スタルヒン、水原茂、久慈次郎、三原脩らそうそうたるメンバーが初代の選手として名を連ねています。
読売新聞創刊100年の1974年(昭和49年)はくしくも、“ミスター・ジャイアンツ”長嶋茂雄の引退の年でした。後楽園公式最終戦を控えた10月14日のスポーツ面には「長嶋語録」や、自身がつづる<悔いなき十七年>という回顧録が掲載されています。
★新時代へ
1986年(昭和61年)は東京本社管内で鉛活字の活版印刷による紙面制作からコンピューターシステムでの制作へと完全に切り替わる、大きな画期となりました。コンピューター化に伴い、記事データベース「ヨミダス」が始動したのもこの年です。
12月15日の<YOMIDAS始動へ万全 年8万件の記事情報蓄積>では、初期のヨミダスの画面が写真で紹介されています。文字のみのシンプルな仕様ながら、検索画面→見出し一覧画面→記事本文画面と、画面構成は現在のデータベースとそれほど変わらず、すでにキーワード検索を実装していました。「ベテラン記者でも苦労の絶えない記事の検索が、不慣れな人でも“ワープロ感覚”で楽々できる使いやすさ」が現在のデータベースにも生かされています。
平成期には阪神大震災、地下鉄サリン事件など世を震撼させた災害・事件が起こり、中でも2011年(平成23年)の東日本大震災では読売新聞の印刷工場や通信部、販売店も水没や損壊など大きな打撃を受けました。
震災直後に編集した3月12日付朝刊の1面主見出しは、黒字に白抜きの<東日本巨大地震>。「M8.8国内最大」「大津波、死者 数百人」「三陸海岸 壊滅状態」とショッキングな見出しが並びます。社会面には宮城・気仙沼通信部や岩手・宮古通信部の記者が自らも被災しながら執筆した鬼気迫るルポが掲載され、津波の恐ろしさを後世に伝える紙面となりました。
憲政史上初の退位による改元で、2019年4月1日に発表された新元号は「令和」。
令和の初日となる5月1日の朝刊には別刷り特集が組み込まれ、新天皇、皇后両陛下の歩みを多くの写真とともに年表で振り返り、金色の雲に歴代の元号を絵巻のように並べた壮麗な紙面で新時代の幕開けをお祝いしています。
再び、創刊号に戻ります。当時の編集長、鈴木田正雄は「説話」として、
「追々皆さんも物しりになるとよのなかというものはよっぽどおもしろいもので御座いますがその面白く成るのも何かよんだり書いたりして多くいろいろな事を知らないとどうも損が多くいけません」
と語りかけています。新聞が時代とともに変化しながらも、現在まで息づくこの開明の精神を、これからもデータベースは刻み続けてゆくことでしょう。(真)
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ヨミダス歴史館は創刊150周年の今年、リニューアルし生まれ変わります。ロゴを変更、インターフェースを刷新し、新機能「紙面を見る」を加え、現在テスト版をお試しいただけます。新しい「ヨミダス」を今後ともよろしくお願いいたします。