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コラム「虫めがね」

「太陽の塔の見つめる先は」

 いよいよ先月始まった大阪・関西万博。55年前の1970年日本万国博覧会も、大阪で開催されました。大阪万博のシンボル・太陽の塔を中心に、ヨミダスで1970年にタイムスリップしてみましょう。

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★万博前夜

 1965年(昭和40年)9月14日、読売新聞朝刊1面トップに躍る見出しは<アジア初の万国博 45年、大阪で開催 正式にきまる>。背景は会場予定地の千里丘陵(現在の万博記念公園周辺)の空撮写真で、まだ「大部分が山林、竹林」の状態です。

 記事によると、この時点の試算で道路や鉄道整備などを含めて「一兆円を超える大事業」となり、開催6か月間の予想入場者は約3000万人。当時の佐藤栄作首相も「世界の平和と新しいアジアを象徴するものとしてきわめて意義深い」と語り、まさに戦後の新しい時代を象徴する一大プロジェクトの始まりでした。

 万博開催決定のムードを盛り上げるように、子供向けの紙面でも歴代の万博を紹介。 <万国博の話 1世紀こす歴史 日本は第5回から参加>(同年10月3日)で、全面ガラス張りの「水晶宮」が話題となった1851年(嘉永4年)の第1回ロンドン万国博、日本が初めて参加した1867年(慶応3年)のパリ万国博などが写真付きで見られます。日本の初参加時はまだ江戸時代で、ちょんまげ姿のサムライたちが参加し世界を驚かせた様子など興味深いエピソードが並んでいます。

 

★人類の進歩と調和

 大阪万博の統一テーマは「人類の進歩と調和」に決まりました(1965年10月26日<人類の進歩と調和 万国博の統一テーマきまる>)。このテーマに沿った展示のプロデューサーを務めることになったのが、芸術家の岡本太郎です。

 1967年(昭和42年)7月8日<[時の人]日本万国博のテーマ展示プロデューサーに決まった 岡本太郎>では、「私は組織が大きらい。いつも孤独の中で仕事してきた。周囲からも“受ければ傷だらけになるぞ”と忠告され、万国博協会からの誘いを最後まで渋った。しかしよく考えてみるとだれかが傷つかないと大事業はできない。こういう場合私は逃げない。進んで傷つくのが私の哲学だ」という就任の言葉を掲載しました。

 「途方もないベラボウなことをするぐらいの気構えでなければできない仕事」として、新しいヒューマニズムを打ち出す覚悟を語っています。

 

★太陽の塔

 万博会場の中心は、長さ300m、幅108mの“世界一の大屋根”の下に、「人類の交歓の場」として広がる“お祭り広場”でした。

 その広場の中心に大屋根を突き抜けてそびえるテーマ館「太陽の塔」の全容の模型が、1968年(昭和43年)3月7日にお目見えしました。岡本太郎と、大屋根をデザインした建築家・丹下健三がそろって模型を見つめる姿が印象的です<万国博 これがシンボル・ゾーン 最終プラン 未来都市への“実験”も>。
 同年9月13日<万国博のテーマ展示 基本設計決まる>では、太陽の塔を縦切りにした、内部の模型も見られます。うねうねと伸びる「生命の樹」に沿って、原生動物の発生から人類発生までの生命の進化が表現され、白黒写真でもその奇抜さがうかがえます。

 会場の建設がはじまり、千里丘陵にその全貌が浮かび上がっていく様子は、同年10月31日<浮かび始めた“世紀の舞台”=写真>、1969年(昭和44年)12月4日<あれが千里の灯 空へ浮くエスカレーター 広がる造形美>などの写真特集でたどれます。建設途中の大屋根からにょっきりのぞいた太陽の塔の顔も。

 1970年(昭和45年)3月2日、連載<[日本万国博]=9完 ハプニング祭り あなたこそ主役>で、いよいよ完成した太陽の塔の全体像が登場。

 「高さ六十メートル。正面、先端、背面に、過去、現在、未来を象徴するそれぞれの表情が描かれ、天にそびえる」と、空をバックに地上から見上げた堂々たる姿で掲載されました。

 「人それぞれが、自分の個性を最大限に主張してぶつけ合う。これこそ調和なんだ」「太陽の塔が、大屋根まで突き破った姿こそ、高度な調和の主張です。しかも強い個性の主張です。これこそ進歩と調和――」(同2月21日<[日本万国博]=3 不統一の統一テーマ 楽しけりゃいいさ>)という岡本太郎の熱い言葉が示す圧倒的な存在感が、現実のものとなりました。

 

★“世界の祭り”のはじまり

 開幕直前の1970年3月8日朝刊では、21ページ以降のすべてのページを<万国博 ガイド特集>として、万博一色の紙面を展開しています。

 完成した会場の空撮写真を先頭に、家族連れ3日間の万博見学を想定した“架空見学記”、手塚治虫など著名人が万博に寄せた「わたしもひとこと」、各パビリオンの未来的な構造物の写真特集や、会場の「べんり地図」「催しものカレンダー」などが続き、世紀のイベントを待ち受ける熱気が伝わってきます。「万博 ガイド特集」などのキーワードもしくは日付指定で紙面を検索し、ぜひページ送り機能でたどってみてください。

 待ちわびた開幕式では、太陽の塔の足元、お祭り広場でのダンスが1面を飾りました(<日本万国博はなやかに開幕 「人類の進歩と調和」へ77か国参加>=3月14日)。
 開幕後のお祭り騒ぎは、3月16日<“世界の祭り”が始まった=写真>にも。太陽の塔背面の「黒い太陽」が見守る中、阿波踊り大会が開かれ「日本人も外国人もみんな踊る」と躍動しています。

 太陽の塔は、こんなハプニングにも見舞われました。

 <太陽の塔上すわり込み “目玉”に赤軍派?>(4月27日朝刊)と、なんと太陽の塔最上部の「黄金の顔」の目玉の中に、赤ヘルメットの男性がすわり込んでしまいました。

 運営本部や警察は<知らん顔戦法 太陽の塔男に>(同日夕刊)と持久戦に持ち込み、<“目玉男”ついに降参 1週間ぶり、説得で 取り調べ中に眠りだす>(5月4日)と最終的に説得に応じるまで1週間続く大騒動となりました。

 

★祭りのあと

 万博は混雑と待ち時間の長さで時に「残酷博」と呼ばれつつ(8月24日<残酷博 追い込みラッシュ きのうも65万>)、最終的に当時万博史上最高の6421万8770人の入場者を記録して幕を閉じました。
 <万国博183日の幕閉じる 6421万人の記録残して お別れ、友情の握手>、
<日本万国博 記録ずくめ 数字からは成功でも未来の展望希薄▽数字でみた日本博>(ともに9月14日)で閉会式の様子や、大阪万博の様々な数字上の記録が見られます。「迷い子」4万8190件、「迷い人」12万7457件、「拾得届け」5万4000件などの“迷記録”も。

 2024年(令和6年)9月24日<[Color the News]未来を一目 6421万人の万博>では、当時の閉会式の様子を写した白黒写真を最新技術でカラー化した画像が見られます。各国女性スタッフが色とりどりの衣装でパレードし、フィナーレを彩った様子がリアルによみがえります。


 太陽の塔は記念建造物として永久保存が決まりました(1975年1月24日<太陽の塔ニッコリ 永久保存決まる>)。

 「『祭りの広場』の真ん中には、神霊の依代がなければならない。即人間であり超人間的なもの。人間の生命の、根源的イメージとしての“心臓”。それが太陽の塔なんだ」
 「太陽の塔の下に立ってごらんなさい。突き抜ける空の上に、空が広がる。空とは宇宙です。日が照る。曇る。雲が流れる。雨が降る。時々刻々に変化する。何時間いてもあきないはずだ」――(<[日本万国博]=9完>より、岡本太郎)。
 

 祭りの中心で務めを果たした太陽の塔は、今なお未来を見つめています。(真)

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