Skip to content

虫めがね

「若き日の森鴎外」

 megane_illust0727今年は明治時代の文豪・森鴎外=写真、国立国会図書館「近代日本人の肖像」から=の没後100年かつ生誕160年にあたる記念の年です。

 実は鴎外は、作家として世に出る前に読売新聞と深い関係がありました。ヨミダス歴史館で、鴎外の青年時代を振り返ってみましょう。

 「森鴎外」で検索して最初にヒットするのは1881年(明治14年)7月12日の「東京大学の学位授与式詳報 皇族、閣僚ら迎え実施 分野別の卒業生名」の記事。学位を得た卒業生の中に鴎外の本名「森林太郎」の文字が見えます。

 この頃の東大卒業生は人数もわずかで、文字通りのエリートでした。紙面にはほかにも後に総理大臣になった「加藤高明」や講道館柔道の創始者「嘉納治五郎」、帝国図書館(現国立国会図書館)初代館長の「田中稲城」など各分野で国を背負って立つ人材の名前がずらりと並んでいます。

 東大を卒業してから軍医になる以前、1881年9月から11月までのわずか2か月半の間に、鴎外は7通も読売新聞に投稿しています。

 記念すべき最初の「[投書]河津金線君に質す/千住 森林太郎」(1881年9月17日)では、「かわず」と「かえる」の違いを万葉集、古今集から説き起こして論じています。

 次の「[投書]投書家の為めにいふ/千住 無丁老農」(1881年10月1日)では、「読売新聞を第一号のはじめより、二千号の今日までも絶えず玩(もてあそ)びて、孤燈の下にこれを繙閲(はんえつ)し」たと、創刊号からの愛読者であることを明かしています。

 できたばかりの読売新聞(1874年11月2日創刊)を若かりし日の鴎外が読んでいたと思うと、不思議な感慨を覚えます。(は)

 

ヨミダスのメールマガジン「ヨミダス通信」でフルバージョンを配信しています。