「千里をゆく五黄の寅・三淵嘉子」
今期のNHK連続テレビ小説「虎に翼」の主人公・寅子(ともこ)は、日本で女性初の弁護士・判事・裁判所長となった三淵嘉子さんをモデルとしています。昭和期の読売新聞紙面にも、三淵さんの活躍が記録されていました。
★明治大学女子部から羽ばたく
作中の「明律大学」のモデルは、三淵さんが法律を学んだ明治大学です。1929年(昭和4年)1月17日に<受付を開始した明大の女子部 法商科150名ずつ>と、この年4月の女子部設置に向けた学生の募集開始が掲載されました。
その後、女性にも弁護士の道が開かれ、三淵さんが高等試験司法科(現・司法試験)に合格したのは1938年(昭和13年)。9月23日<女弁護士の卵 筆記パスしたおふたり>と、明大法学部在学中の久米愛さん、そして三淵さん(当時・武藤)の筆記試験合格を伝えています。この年は2500余名の受験者の中、合格者は247人とあります。そのうち女性は上記の2人のみでした。
続いて、前年に筆記試験に合格していた中田(当時・田中)正子さんとともに口述試験にも合格し、11月2日の夕刊に<初の女弁護士3人 合格発表 1年後には颯爽法廷へ>の見出しが躍りました。
次の日には読売新聞に原稿を寄せ、<[女の立場から]女と法律/武藤嘉子>で「幸運にも合格した高等試験、これで日本にもまた一つ女の職業が増えたワケです」「私にさへ得られた資格ですから私達より後から来る多くの人々にも、必ず得られる資格です」と、後進を励ましました。
弁護士としての道を歩み始めたばかりの三淵さんを婦人欄で紹介した、<[新しき美]=1 輝く知性美 武藤嘉子>(1940年2月21日)に添えられた写真の三淵さんの面持ちは、ドラマ主演の伊藤沙莉さんとよく似ていて驚きます。ぴったりの役柄だとうなずけますね。
★「五黄の寅」がゆく
ちなみに、ドラマの主人公・寅子の名は、「五黄の寅」年生まれであることから名付けられたという設定でしたが、三淵さんご本人も、1914年(大正3年)の「五黄の寅」生まれ。
「五黄の寅」の“強すぎる運気”は紙面で話題になることもあったようで、1952年(昭和27年)10月31日<[ごしっぷ]子供に酔態を見せぬ法▽気の弱い五黄の寅>では、東宝の映画監督らが「映画界五黄の寅の会」という親睦会をつくろうと女性陣をリストアップしたところ、“男装の麗人”水の江瀧子や、笠置シヅ子などそうそうたる面々で、怖じ気づいた男性陣が「この会の結成無期延期にした」とのエピソードが。
分野は違えど、ここに同い年の三淵さんも並ぶことを想像すると、確かに時代を動かしていく力強さと勢いに満ちているように感じられます。
★性別の枠を超えて
紙面でも何かと「女性初の」「女性として」という枕詞がついて回ったのは、時代の先端を進む宿命であったかもしれません。
ご本人はというと、1965年(昭和40年)4月30日の<座談会[なんでも話しましょう]法律をもっと身近に 憲法週間に寄せて>の中で、「男女平等をほんとうにかちとろうとすれば、婦人がそれぞれの職場でコツコツと地道に実績を示していくほかはないと思うのですよ」と語っていました。
三淵さんは1972年(昭和47年)、新潟家庭裁判所長となりました。6月15日<初の女性裁判所長 新潟家裁に三淵嘉子さん>でも、「女だからあまえていれば、裁判官としてやっていけません。それは裁判実務でも行政官としての所長としても同じ」とコメントしています。
性別の枠組みを超えて、法律と向き合い、人間と向き合い、不断の努力を積み重ねました。
三淵さんは1984年(昭和59年)に69歳で亡くなりました(5月29日<女性判事の第1号 三淵嘉子さん(元横浜家裁所長)死去>)が、その後、1987年には初の女性高裁長官が、1994年には初の女性最高裁判事が誕生しました。三淵さんの切り開いた道を後の世代が進み、その道はさらに延び続けています。
★新聞の役どころ
作中では重要なシーンでたびたび新聞紙面がクローズアップされているのが印象的です。
尊属殺重罰規定に対する最高裁大法廷の憲法判断や、戦後の日本国憲法第14条で定められた「法の下の平等」を寅子が新聞紙を見つめながら噛みしめるシーン。「女性の困難さ」のみにとどまらず、時代そのものが抱えていた困難さ、現代にも通ずる課題をドラマは描いていましたが、新聞はまさにその時代の生の空気感を凝縮しており、それを現在もアーカイブを通して追体験することができます。
加えて、例えば「女性弁護士」で検索すると、三淵さんたち以前にも、弁護士法が成立する前の「代言人」として活躍した女性がいたということも、検索結果からわかります。
そのように、一つのテーマから関連する話題をどんどん広げて掘り下げ、歴史を読み進めることができるヨミダスで、ドラマの時代と現代とをつないでみてはいかがでしょうか。(真)