「日本人初メジャーリーガー・村上雅則の足跡」
今年は大谷翔平選手、山本由伸選手が所属するロサンゼルス・ドジャースがワールドシリーズを制覇し、日本の野球ファンもメジャーリーグに沸いた年になりました。
そして今年は、ちょうど最初の日本人メジャーリーガー誕生から60年になる年でもありました。ヨミダスからその軌跡を追ってみましょう。
★野球留学生として渡米
1962年7月6日の高校野球記事<[甲子園めざして]=3 法政二 速球すばらしい村上 打線も上向く>。
この前年と前々年に甲子園の夏春連覇を達成した名門・法政二高のエースピッチャーこそが、後に日本人初のメジャーリーガーとなる村上雅則選手です。「その左腕から右打者のヒザもとをつく速球はすばらしい」と評されています。
村上選手はこの年、南海ホークス(現・ソフトバンクホークス)に入団。「身長1メートル81、体重81キロ、左投げ、左打ち」(9月30日<村上投手(法政二高)南海入り>)と、当時の高校生としてはかなり恵まれた体格でした。
翌年、南海ホークスは<村上ら3選手を派遣 南海、米のキャンプに>(1963年12月4日)と、有望な新人を米サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下のマイナーリーグ・1Aフレスノに野球留学させることを発表しました。
村上選手は渡米後2か月もたたないうちに<野球留学の村上が勝利投手 カリフォルニア・リーグ>(4月27日)とさっそく初勝利を挙げ、「5イニングスをノーヒット・ノーランに押えて勝利投手となるあざやかなデビューを飾った」と賞賛されています。
村上選手はフレスノで49試合に登板し11勝、防御率1.78の成績を挙げ、この年カリフォルニア・リーグの新人王にも選ばれます(9月4日<村上が新人王 カリフォルニア・リーグ>)。
★メジャーのマウンドへ
村上選手のメジャー昇格が報じられたのは1964年9月1日。<初の大リーグ入り アメリカに留学中の南海・村上投手>の見出しが夕刊社会面にのぼり、「日本人が米大リーグ入りするのはこれがはじめて」と記されています。
続いて2日の<“大リーガー”村上が初登板>で、実際にジャイアンツのリリーフ投手としてニューヨーク・メッツ戦に初登板し、「八回裏一イニング投げただけだったが、二人を三振にうちとり、一人を内野ゴロ、単打一本を許しただけで無得点に押えた」と好投が伝えられました。
この場面を、後に村上選手の軌跡をまとめた1994年5月9日~13日の全5回の連載[わが故郷 サンフランシスコ]では、このように描きます。
「それは歴史的な一瞬だった。一九六四年(昭和三十九年)九月一日夜。(中略)薄いグレーのユニホームを着たビジターのジャイアンツナインが守備につこうとした時、男性の声で場内アナウンスが流れた。『ニューピッチャー、マサノリ・ムラカミ』」
「マイナー最下位の1Aから2A、3Aを飛ばし、いきなりメジャーへ。まさにシンデレラボーイ、『アメリカン・ドリーム』を実現して見せた」――。
村上選手のメジャー初勝利はおよそ1か月後の10月1日に紙面に届きました。 <村上、大リーグで初の白星 救援でコルツから奪う>
この日は阪神タイガースのセ・リーグ優勝のニュースに押され、小さな扱いとなっていましたが、日本人投手のメジャーリーグ初となる記念すべき1勝が紙面に刻まれました。
★日米争奪戦勃発
充実したアメリカでのシーズンを終えた村上選手でしたが、そのオフには、南海と米ジャイアンツがともに村上選手の保有権を主張し、日米のコミッショナーが調停に乗り出すトラブルに発展します。
村上選手の去就に関する記事の見出しを追うだけでも、その混迷ぶりがわかります。
12月3日<村上、来年も大リーグ残留か>
12月17日<村上選手が帰国 “所属”で波乱よびそう>
12月24日<「村上は自由契約選手」ジ軍に契約書 南海苦境に立つ>
12月25日<南海断念か 村上投手の復帰>
12月26日<南海、復帰の望み捨てず 村上問題>
1月27日<こじれる「村上問題」 今シーズン、米でプレー>
1月31日<村上は南海でプレーする 米との契約無効 南海首脳陣が断定>
2月1日<どこへ行く?村上投手 双方に契約ミス本人の意思もゆれる▽ジャイアンツも強硬>
2月3日<村上はサンフランシスコジャイアンツのもの 米野球コミッショナーが正式見解>
2月9日<村上、ジャイアンツと完全に契約 米コミッショナーから手紙>
3月1日<南海“村上残留”変えず きょう最終態度を決定>
結局、「このシーズンをジャイアンツでプレーし、次シーズン以降は村上選手の自由意思に任せる」という条件でようやく決着がついたのは4月のシーズン開始後でした(4月29日<村上、渡米に同意 復帰問題解決へ>)。5月にジャイアンツの戦列に復帰し、<村上(ジ軍)リリーフ 対ド軍戦に初登板>(5月11日)と再びメジャーのマウンドに戻りました。
村上選手は1965年のシーズンを74回と3分の1イニングに登板し、4勝1敗、防御率3.77の成績で終え(10月5日<米大リーグ閉幕 村上は4勝1敗>より)、そのオフには<村上、南海に復帰 来季から>(12月8日)と日本球界への復帰が報じられました。
2年間の旅路ではありましたが、日本人メジャーリーガーの歴史に、確かな第一歩を刻みました。
★忘れ物は次世代へ
村上選手は前述の1994年の連載<[わが故郷 サンフランシスコ](5)若人よ、目指せメジャー>(5月15日)で述懐します。
「アメリカに忘れ物をしてきたような気がしてならない。だから、若い人にはどんどん(メジャーを)狙ってもらいたい。人生は一回きりじゃないですか」
この連載は、「メジャーを目指した日本人は何人かいる。しかし、大リーガーになったのは、まだ村上だけである」と締めくくられます。
野茂英雄選手が海を渡り、ドジャースに入団したのはその翌年の1995年。
堂々たるトルネード投法を武器に、奇しくもサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビューを果たしました(5月4日<大リーガー野茂、無失点デビュー 喜びと気負いの91球 ローテ入り決める>)。
その後の活躍は、言わずもがなです。
イチロー選手、松井秀喜選手、そして大谷翔平選手へと続く、日本人メジャーリーガーの系譜が始まった、60年前の歴史的な一瞬を、ヨミダスで回顧してみてはいかがでしょうか。(真)